母の状態に左右されることでもなく、
ここ数年に始まったことでもない。
子どものときからずっとそうで、「母」だけに限らない。
年を取って明文化できるようになったこと。
関係性の異なる2つの関係性に同時にさらされるときに
強いストレスを感じます。
「母」を例にすると、
「母」と、母の友人と、私の3人が居合わせたときにはストレスはありません。
「母」と、夫や兄弟などの家族と、私、家族関係のなかでの3人も大丈夫。ストレスはありません。
しかし、
「母」と、私の仕事関係者などの知人・友人、私 となると非常にストレスを感じます。
「母」と、見知らぬ人(たとえば店員さん、作業員さんなど)と私 の場合も非常にきついです。
不意にその状況にさらされると、非常に苦しい思いをします。
おそらく、「母」を大切にしたい、重んじたいけれど
ほかにも立てたい(=いい顔をしていたい)関係性に同時に現れた場合に
私自身が混乱している模様です。
第三者に対して、いい顔をすると、難聴で多動のために取り残された感を持つ「母」をないがしろにしてしまう可能性、大。
「母」を第一にすると、大切にした第三者をないがしろにしてしまう可能性、大。
しかも該当シチュエーションでは、「母」は難儀な言動をすることが多い可能性、大。
“可能性、大”は“おそれ”にも言い換えられるし、“恐怖”でも差し支えなさそう。
本当におそれなのかといえば、そうでもなさそうで、
その下に“怒り”がありそう…
まではふんわりわかる気がします。
なのに、どこから? どんな? は、まだ、モヤモヤのベールに包まれています。
そういうことってない? と夫に聞くと
「まったく感じたことはない。想像もつかない。なんで?」と聞かれました。
裏表の少ない人にはないのかな?
よい顔をしたい気持ちが強い、自分のほころびなのかもしれません。
というのも、エアコンの設置工事のとき、
母と作業者さんの間で、ひとり、ストレスマックスになっていたからです。
相対的に、道徳的に比較してみると
ストレスマックスなのは間違いなく作業者さんです。
しかし、絶対的にみると。
作業者さんのストレスは言わずもがな(だれにも推察しやすい)。
多動の母を絶対的にみると、母のストレスはマックスに近くなります。
それでいて自分にフォーカスして絶対的にみると
自分は自分で胃が飛び出しそうなほどつらくなっています…
つらいので飲み込む、答えが出るまでは自分の中で転がす作業を続ける(角がとれてきます)…
ということを繰り返していました。
あ、そうか、自分のキツさをだれも思いやってくれないので
小さな自分は相当怒るのかもしれませんね。
自分の認知を少し変えていくことをうまくできたら、
世界はもっとラクになるでしょう。
私の場合は、三角関係wの認知をもう少し変えて捉えると
ずいぶんラクになりそうですけど。
少し時間をかけて、じっくりほどいてみようと思います。
繕いながら使っていた夫の丹前をほどき、中の綿を取り出しました。これで新しく、小さな座布団つくろう。