2018年の今日は新潟県阿賀野の瓢湖にいたんだな…と懐かしくなりました。…「グレーの世界」で思い出したので。
“可哀想がり”のうちの母は、昭和一桁時代ならではの
過酷な幼少期を生き抜いています。父はさらに過酷だったようです。
親がいなかったり、死なれたり、殺されかけたり、捨てられたり。
そんな父母の育ちからすると、
私が“可哀想”と人に言われる状況は、鼻くそにも満たないことになってしまいます。
比較じゃないけどな!
そんな親たちの「家庭」「家族」「愛情」についての“こだわり”は、半端なかったことでしょう。
“思い入れ”ではなく、執着がからんできそうな、ネガティブをはらんだ“こだわり”。
若い父母の様子を映画を見るみたいに遠くからただ眺めていると、
「いやいやいや、肩に力入りすぎてっからw」と突っ込みたくなりますが、
ちゃんとした家庭をつくろうとするひたむさにはグッときます。
※当時の私ではなく、“映画”を眺めている現在の私の感想です。
実際には、
いささか機能不全の家庭であったかもしれません。
でもいいじゃん、みんなよくがんばった、よく生き抜いた、と思えるのは
自分がアラ還のせいかもしれません。
だとしたら、年を取るのはすごくいいぞ。
先日、「白黒ハッキリさせたがる自分が、グレーを認められるようになること。
それを愛と呼べるのではないか」という話を伺ったときに、
話してくださった方に思わず拍手しました。
うまいことおっしゃるな。
「愛」という崇高なものを、私はいまだにうまく捉えられない。
感じられても、自分の腑に落ちることばにしかねています。
それでも「グレーを認められる」は、すーんと自分の真ん中に落ちてきました。
ジャッジしないこととも言い換えられるのかもしれないな。
相手のことも。私のことも。
そういえば、可哀想がりの母は、
母自身のことも「○○ちゃん、可哀想!」と、はばからず言うこともあり、なかなか微笑ましいです。
たとえ
……かわいそなんはこっちやで、と背中で吐き捨てることがあったとしても。
グレーでいこう、グレーで。