認知症母の遠距離介護記録

91歳独居の母は要介護1。認知症で高齢者のADHD、片耳ろうからの両難聴。眼底出血による視野狭窄と視力低下。そして腰椎圧迫骨折!! 東京~九州で、遠距離介護しています。執筆者は1965生の娘。いろいろあるけど、まあいい!

遠距離介護になったわけ_原因と結果の法則 

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今では考えられないことですが
私が高校生の頃までは、まだ母の私に対する依存はメガ級で
夏季休暇などで実家に帰省すると
「お母さんの老後はどうしてくれるのよ」
泣き崩れられることがよくありました。おれ、17歳。


当時、自分の策が実を結び、親は四国で私は京都の片田舎。
念願の、親元離れての高校下宿生活でした。
それでも帰省のたびに
「お母さんは、これからの人生、あなたの行くところについていくわ」の執着はやまず、
そう言われちゃうと
「じゃあ、私はお母さんの行かないところに行くね♡」
「どうしてそんなこと言うのよぉぉぉぉ。
私の老後はどうなるのぉぉぉぉ

みたいなやりとりが続いていました。

デモ、そんなことは、それ以前より150倍マシで。
親と同居していた頃は、高校生になってから母の娘への束縛がことさらキツく、
生徒会やクラブ活動で帰宅時間が少し遅いと、
母から学校に何度も電話がかかってきました。
学校に鬼電。
18時半、19時になると職員室から先生が
「フク、お母さんから電話やで」と呼び出しが。
わたしだけ、10分ごとに、母から電話。
他のみんなはふつうに作業、ふつうの家族関係…なかなかキツかったです。
まあ、こっちも若いしね。


父はおっかないわ、母にしがみつかれるのがいやだわ、で、
とにかく家族とは(きょうだいも含め)遠い遠いところに離れていたかったわたくし。
前述の「じゃあ、私はお母さんの行かないところに行くね♡
は、紛れもない本心でした。


数年後、転勤族で全国を転々としていた親が、
定年間近で終の棲家を求め始めたとき、
「子どもたちは関西だし、亀岡あたりに住むのもいいかな」と言うので
いやいやいやいや、なんといっても九州でしょう! 
九州最高!!

帰省するときに関門海峡わたるのが『ふるさとに帰る』感じで落ち着くのよ」
と九州を推しまくりました。


これも策が実り、晴れて実家は九州となり、
家族としっかり離れられて安堵したのでした。
そんなわけで30年後、「遠距離介護、たいへーん!」になっています。
原因と結果の法則。責めるならあの日のおれを。


あの高校時代から40年。
長い反抗期を経て、放蕩、断絶、いろいろありましたが、
今は遠距離介護で母との距離を縮め
凸凹しながらもやさしい時間を過ごさせていただいています。
ありがたいことです。ほんとうにありがたい。
遠回りもしたけれど、人は変われるんだなぁ(わたしのことです)。
終わりよければすべてよし。ちょっと思っています。

そして、遠いけど、九州に帰れるのはやっぱり幸せです。
まあ、もしも実家が亀岡だったら「亀岡、サイコー!」って、まちがいなく言うてるよな、じぶん。