認知症母の遠距離介護記録

91歳独居の母は要介護1。認知症で高齢者のADHD、片耳ろうからの両難聴。眼底出血による視野狭窄と視力低下。そして腰椎圧迫骨折!! 東京~九州で、遠距離介護しています。執筆者は1965生の娘。いろいろあるけど、まあいい!

肺がん末期 パンコースト 父の最期

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手前が届かなかった父への絵はがき。ほぼ意識のない人に、それでも絵ハガキを書き続けていたのは、本人に告知できなかったということもありました。書いている内容は、自分の独り言というか、日記に近いな

30年前に亡くなった、亡父のパンコーストのことを、
忘れないうちに少しまとめておきます。

父は1993年1月に、62歳で他界しました。
亡くなる前年の2月に、MRIで初めて肺のあたりに腫瘍が発見されましたが、
1年近く、そこまでたどり着きませんでした。
背中の痛みから始まり、いろいろ病院を回ってたくさん検査しても「問題ない」と言われ続け、
最後に整形外科で勧められたMRIで、脊椎に巻き付くような腫瘍が見つかったのです。
4月に、遠くのまちの肺外科がある大学病院に入院。
還暦のお祝いにと渡した夫婦国内旅行のチケットは病院までの回数券に代わりました。入院先が、特急で2時間のまちにある病院だったからです。


肺のレントゲン写真やCT写真では、捉えられなかった異変。
「『この画像の状態だと、過去に結核を患った人だな』で通してしまう。私もそうします」と、MRIで腫瘍を発見した医師に言われました。


今でもひどいなと思うのは、末期がんの治らぬ人に、開胸手術で余計な苦痛を与えたことです。
しかも担当医師からは「おそらく特殊な結核だと思うから、開胸して除去する」と言われたのです。
本人はもちろん、母も私も大喜びでした。だって、結核なら治るじゃないですか!
4月に、開胸手術。
術後に担当医師から母と私で説明を受けると、肺がんの末期で、パンコーストでした。
「次のサクラは見られない」と余命宣告されました。
父にいらぬ苦痛を与えてしまっただけの開胸手術は余計だったし、思い出すたびに申し訳ない気持ちになります。
もうあんなことがなくなればいいな。


父は禁煙してから10年過ぎていましたが
医師には、「この肺がんは喫煙ととても関係があるがん」と聞きました。


私は当時関西在住。理解ある職場に恵まれ、介護のための長期休暇を認めていただき、
6、7、8月、介護のために仕事をお休みさせていただきました。
手術を終えた父が5月に退院して、在宅療養に。
7、8月はとても元気に過ごしていました。
「なんだ、父さん、元気じゃない! これなら大丈夫だ」
というわけで、9月に職場復帰。

ところが私が帰阪してすぐ、父の容態が急激に悪化し、すぐまったく動けなくなりました。
実家から車で20分ほどのところにある大きな病院に入れていただき
亡くなるまでの5か月間、そこでご対応いただくことができました。
私はというと、「もう大丈夫です」といって9月頭に復帰した手前、二回目お休みするのが気が引けました。結局長期休暇はとらず、週末のみ帰省して見舞っていました。そのほかの日は毎日絵はがきを書いて、病床の父に投函し続けました。アレクサも、メールのない時代ですから。父は、無骨に見える昭和一桁生まれですが、アルフォンス・ミュシャとか、ルノワールとか、やさしい絵が好きな人だったのです。


パンコーストのせいか、父の肺がんは末期であるにも関わらず、
咳のひとつもなければ、吐血したこともありません。胸の痛みもありません。
まったく肺がんらしくありませんでした。
ただ、亡くなる5カ月前からは、首から下がまったく動かせなくなりました。


再入院した後は、大便の排泄に次第におむつを使うようになっていきました。
私の特養修業は済んでいたので、父のおむつを替えるのは造作ないことですが
娘におむつを替えられる父の気持ちを考えると、
看護師さんたちにお任せするのがベターと思いました。
父は、看護師さんたちに下のお世話をしていただくのを、
お嬢さんなのに申し訳ないと、とても気にしていました。
とくに、おむつ替えの際のニオイを気にして。
そりゃそうです、モルヒネのないときは頭はクリアだし、まだ60歳なんですから。


再入院後は痛みとの戦いで、ペインクリニックだけが頼み。
最期はモルヒネを使う時間が増え、意識も混濁していました。
亡くなったのは1月6日。母に看取られました。
私自身は前々日に帰阪したために看取りはできず、父と最後になにを話したことになったのかすら覚えていません。
もう長く、眠り続ける状態が続いていたからです。
訃報で帰省したときには、父の遺体は実家に戻ってきていました。
亡くなる前夜も、私はいつものように、もうハガキなど読むことはない父に絵ハガキを書き、
翌朝一番、つまり父の亡くなる朝に投函しました。

父亡きあとは、残された家族のケアが最優先。
母と兄が号泣するので、葬儀でも火葬場でも私は泣きませんでした。
全部が済んで、あらためて病院のナースステーションへご挨拶に行ったとき、
「届いていましたよ」と、婦長さんから
父に届かなかった最後の絵ハガキを受け取った時に、涙があふれました。


まだ昨日のことみたいですが、あれから30年近く経っています。
時間て不思議です。

そうだ、あの頃の父母と今の私と
もう、ほぼ同じ年なんだと、ふと気がつきました。