「潜在意識とつながっている大切なものを探す」という
不思議ミッションが降ってきたので
かなり久し振りに入れ子の箱を開けました。
四十代の父が幼い私のために作ってくれた入れ子の箱です。
大切なものなのであまり開けないようにしていました。
擦れて紙が傷むせいもありますが
なにより当時の空気が箱の奥に少しだけ残っていそうな気がして。
父が生きていた頃の空気。
2年ほど前、実家で母に見せたら、目を輝かせて喜びましたが
私にとってはよくない輝き方でした。
…見せるんじゃなかった。案の定、
「次の学習会のときに持っていってみんなに見せる!」と意気揚々です。
自分でもケチくさいとは思うのですが
でも、壊されそうで、失くされそうで、すごくイヤでした。
宝物なのに。
こんなとき、多動の母はゴジラに見えます。
それでもワクワク感いっぱいの目に上目遣いに見つめられ、
あきらめて母に預けて、帰京しました(2年前の話です、しつこいけど)。
母が小躍りしたのは言うまでもありません。
その次に帰省したら、入れ子の箱は仏壇に置いてありました。
きっとひと仕事終えたはずです。
今度は母には断らず、東京に持ち帰りました(だって、私のですから!)。
持ち帰って自室に飾って、ほーっ。
傷めるのがイヤで箱は開けませんでした。
それが、今日入れ子の箱を撮影してみようと中を開けていったら。
いちばん小さな
3ミリ角の立方体箱がないですやん。
父がピンセットで作ったヤツ。
ピンセットでちゃんとフタが開けられる3ミリ箱。
…ない。
ものすごく悲しかったです。
犯人はわかっていますが責められない_| ̄|○
あとね、どうして名前を油性マジックでかいてんのさ、母さん。
😭😭😭
しかも私の旧姓(母の姓)。私のだってば、この箱!!😭😭😭
【入れ子の箱の思い出】
1973年の年末年始のお休みに、父が作ってくれました。父は学生時代に箱づくりのアルバイトをしていたそうで、わたしの大判の千代紙を見ておもむろに作り始めたのでした。当時私は小2。
そんな家族サービスはそれまで一度だって体験したことがありません。父はサラリーマンでしたが、職人的釣り人でもあったので、休日は晴れでも雨でも釣りに明け暮れ、家族と過ごすなんてことは年に3日間もありませんでした。
この極上の時間がつくられたのにはワケがありました。当時、父は宮城県仙台市で単身赴任しており、年末年始を利用して家族のいる兵庫県西宮市に来ていました。つまり、釣り道具がなかったのです! ヤッホー!
釣りができない、娘と遊ぶ術も知らない父が始めたのが、この入れ子の箱づくりでした。これは2つめに取りかかった入れ子箱です。1つめは5つの入れ子箱で、結構ざっくりしていて、数年後に私が個々で使ってしまいました。この2つめの箱は、箱と箱の寸法をきっちり計算しながら精度を上げて作りました。「次」はありません。私にとっては奇跡の箱。本当は11個のはずなのに。最後のキメのピンクの箱がない…。あの箱だけはボール紙ではなく、画用紙で作ったんだよ。
娘のものは母のもの、母のものは母だけのもの…。
そういえば、父の大切にしていたカーボンの釣り竿を
私が誤って釣り場で折ったとき、
父は「形あるものはいつか滅す」と言ってくれました。叱られなかった。
そうだ。形あるものは仕方ない。
母はかけがえのない人だものね。
まあいい。