認知症母の遠距離介護記録

91歳独居の母は要介護1。認知症で高齢者のADHD、片耳ろうからの両難聴。眼底出血による視野狭窄と視力低下。そして腰椎圧迫骨折!! 東京~九州で、遠距離介護しています。執筆者は1965生の娘。いろいろあるけど、まあいい!

自分に対しても「心配より信頼」。体調不良でも楽しく生きる

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母は若い頃から、なにかというと検温します。
趣味なの!?というくらい、何度も何度も検温し、血圧を測ります。
あそこが痛い、ココが痛い、かゆい、おかしい、の訴えは多いと感じます。
これも若い時からそうで、今に始まったことではありません。
最近は、手持ち無沙汰だといっそう体に関心が向かうようです。

先日、お世話になっている介護センパイとのおしゃべりで
親の体調の話から、自分たちの体や健康の話になりまして。

体の不調を見つけては痛いつらいと悲しんだり心配したりするのは、
親だけじゃなくて、子の世代の私たちもみんな一緒なのかもね、
みたいなことを語り合っておりました。
自分の体に全神経を集中するかのごとく、ここがあそこが調子が悪いとやってるのは、
私たちも高齢親と大差ないのかも、なあんて。
「その時いちばんの愁訴に集中するから、
新手の症状が現れると、前の愁訴はだんだん薄まるのよね」とも。
せめて子世代の私は、そこからは脱却しておきたいものです…。


ふと、耳鳴り対策で、音を聞いて注意をそらすことで、
耳鳴りを改善する方法を思い出しました。
以前自分の耳鳴りで困っていたときのこと。
そもそも本当はみんな耳鳴りがしていて、
それをキャッチするかしないかの差らしい、という記事を読みました。

面白いと思って、試しに、シーンとした場所と、駅前の雑踏と、5分で移動して
自分の耳鳴りを聞き比べたら、
シーンとした場所では“ワンワン、ジージー、キーン…”とうるさくてたまらない耳鳴りが、
駅前の雑踏の音に囲まれると気にならなくなるのが新鮮でした。

以来私が耳鳴りを気にすることはなくなりました。
今は、焦点を合わせようと思えば耳鳴りがわかるくらい。
自分の鼓動を聞くのと同じ感じです。
※なかには脳梗塞心筋梗塞などにつながる耳鳴りもあるそうなので、
  あなどってはいけませんが。


異常に気づくことは大事なことで、それ自体が能力ですが、
同時に不具合を気にしすぎないことって、案外大事かもしれません。
年齢と共に改善しない不調は少しずつ増えます。
違和感があって医療機関を受診して、半年経っても改善しないなら、
それはもう「不調」ではなくて、すでにそういう調子だと考えるほうがベターではないでしょうか。
ならば、少しでもラクになるよういたわりながら、
それはそれとして楽しく毎日送るほうがいい。
体の不調に引きずられてフキゲンになる必要はありません。

ハツラツとした健康で若い肉体のイメージとは、早めにおさらばするほうが無難。
それは「今」ではなく、過去の幻影。
今の体は、年齢らしくがんばっている体です。

 

そして、「痛いから、病があるから不幸」というわけではまったくないことに
一刻も早く気がついたほうが人生は楽しい。
かく言う私も、指摘してもらうまで、
痛みがあると、幸福感は損なわれると思っていました。もったいなかったw。
それは自分の意識の認識の問題に過ぎません。
痛みや肉体の動きの不自由さ、難病や不治の病、
病気以外の過酷な状況…だろうとなんだろうと、
それらと自分が幸せであるかどうかはまったく関係なくていい。
まったく、です。選ぶのはいつでも私。
いつでもどんな状態でも、
幸せを感じる自由と権利があるのに放棄してどうする。
と、今はちょっと攻めた感じで思っています。
はじめは騙されたと思って、痛いときにもしあわせを噛みしめてみるんです。
もっと細かく言うと、自分の、
痛がる意識と、そんな自分を眺める意識に分けて見る。

 

自分自身に対しても、「心配より信頼」。
痛む体を愛してあげて(できれば痛がる気持ちも)、ねぎらってあげて、
それでいい、全然問題ないと、抱きしめてあげる。
不調な体や心を、決して責めないのも大事です。
30年、40年間ザツに使い続けてきて、不具合が出るのは当たりまえですから。
その上で、肉体の状態や、現れる症状に振り回されることなく、
ただそうである状態を認めていく。その状態は自分の心を凌駕するものではない。
苦痛を減らせる負担は減らせるように、できることがあるなら
暮らしなどは改善に努めます。
厳密には、運動、食事、睡眠を見直し、小さなことでもできることはやってみる。
あとは早く今の体に慣れる。

それでも今いのちがあり、世界を見ていられるのって、スゴいことなんですから。
苦しみながらも、今生きている貴重な経験です。

古今東西、「生老病死」を苦しみだと捉える人が圧倒的に多いだけで、
それは人ならではの傾向というか習性です。
なにも周りの人と同じに振り回されなくても構いません。

 

というわけで、これから私は、生老病死に、全部ワクワクしてやろう。
だって、それを全部自分で確実に体験してくって、スゴいこと。
ここまで長生きしたからできることです。

とか言いながら、死に別れるのにさめざめ泣くこともあるし、
得た病を嘆くことだって、これからたくさんあるかもしれない。
この先も悲しくなることは変わらずあるかもしれません。
でも、ただ生きるだけでもすごい熱量なんだぜ、と思いながら、
それを讃える人でいたいな。

 

高齢親とともに歩みながら、日々そのようなことを学ばせてもらっています。
正面から学んだり、反面教師だったり。

日課アレクサ呼びかけで、
画面越しにきれいな桜を見せたら、母が喜んでくれました。
春じゃ春じゃ。

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