曲がり角を曲がったところでふと思い出したので記しておきます。
自分の児童期の強迫性障害こと。
※個性として受け入れてくれていた母には、感謝しかありません。受診はしませんでした。
「霊柩車を見たら親指と歯を隠せ。
じゃないと親が早死にする」
小2のときに友達から聞かされて、ほぼパニックでした。
当時、【霊柩車】を見たことがなかったので、
パトカーや救急車、消防車などのサイレンを聞くと、
もしかしたら霊柩車が鳴らしている音かもしれないと警戒し、
不幸のどん底に突き落とされた気持ちになって親指と歯を隠す日々でした。
幼い頃の私は、
母のことが好きすぎて、頭がおかしくなりそうでした。
いや、若干ぶっこわれていたのかもしれません。
小学校に上がってすぐ、二十歳になって独り立ちすることを考えると、
母と過ごす時間がなさ過ぎることに衝撃を受けました。
だって毎日5時間から8時間、学校にいなくちゃいけないわけで、
幼児期のように、母と共におうちで暮らすことができません。
学校生活にいったいどれほど自分の時間を奪われるんだと思うと心底ガッカリしました。
もっとも怖かったのは、母を喪うことでした。
年上の人が先に死ぬなら、母は私よりも先に死んでしまう。
なんとかそれを食い止めたくて、
食い止めるためならなんだってしたくて、
小学生の間は毎日のようにこんがらがっていました。
高学年になるとどんどんエスカレートして、
自分がちょっとした痛みや、罰を受けることで、
母の代わりになって、母の命が長らえるかも…と思いつき、
「次のコマーシャルが終わるまでは息をしたらダメ」、
「1分間まばたきをしたらダメ」、
「ツバを飲み込んだらダメ」、
「教科書に“死”のニュアンスが出てきたら、その人たちの怒りを買わないようにていねいにお辞儀をしなくちゃダメ。お参り。そのときに自分は頭をどこかに打ちつけなければダメ。自分が傷みを感じるように」。
思い起こせば無茶苦茶ですが、
そういうことをこなしたら、母が死なずにすむかもしれないと真面目に思っていました。
だから、絶対に、しなければいけないこと。
行動のあれこれに制約があり、日々暮らしはなかなか肩肘はったものでした。
初めての歴史の授業(小6)は苦痛でした。
古墳時代を学ぶ頃はかなりネガティブ。
ヘンテコ儀式がマックスになっていたのもこの時期です。
なぜ死んだ人のことをわさわざ掘り返して学ばなければならないのか、
なぜ死んだままにしておけないのか。
死んだ人(歴史の登場人物はみんな死んだ人!)が出るたびに、
前述のスタイルで、お辞儀しなくちゃおさまらないので
授業中に机に頭をゴンとやるのが人目についたことでしょう。
死者とのつきあい方は難しい…w。
できるだけ、自分だけがわかるようにやっていたつもりでしたが
自分的には手加減するわけにもいかなくて、加減が難しいのですw。
ある日、「フクはなんかヘンなことをしてるよね?」と同じ班の男子3人に言われました。
しまった他人にバレてしまった…人にバレたらもうダメだ…と思って、
取り急ぎ儀式はやめました。学校生活ってなんだかたいへん…。
母自身に対して求めることもなかなか厳しく、
例えば、母が口紅をつけたまま食事をしようとすると、
母が口紅色素の毒を食べて早死にしそうに思い、
口紅をちゃんと落としてから食べるように泣いて抗議していました。
「お母さん、死なないで😭」になってしまう。
こうして列挙してみると、ちょっとクセツヨな子どもです。
当時は、不安で不安でしょうがなくて、
ことあるごとに私が母に「大丈夫?」と聞き、母が「大丈夫!」と答える…という時期でした。
そのうちに自分ひとりでも口の中で「大丈夫、大丈夫、大丈夫…」を繰り返す、みたいな。
「大丈夫」の言葉のリズムに合わせて歩く、に近いことをしていたように思います。
もう、なにが大丈夫なのかもわからないんですがw。
こうした強迫観念と異様な行動の数々はある日
時が満ちて、
波が引いていくようにさーっと治りました。
治った理由は、「大丈夫」の呪文のほかにもう一つありました。
恋をしたから。
きっとちゃんと恋をして、
他者へ思いを寄せることで母への執着が薄れたからだと思います。
兄はそんなことはまったくないようだし、
持って生まれた気質の問題なんでしょう。母の育て方とも思えません。
異常行動を繰り出す娘を、問題視せず、
日々ふつうに扱ってくれた母には感謝しています。
過去を振り返ると、
人生どんどんラクになっていくし、世界はフレンドリーになっていくように感じます。
自分自身の問題なんでしょうね。
大人になってよかったです。