認知症母の遠距離介護記録

91歳独居の母は要介護1。認知症で高齢者のADHD、片耳ろうからの両難聴。眼底出血による視野狭窄と視力低下。そして腰椎圧迫骨折!! 東京~九州で、遠距離介護しています。執筆者は1965生の娘。いろいろあるけど、まあいい!

亡父、最期の1年ダイジェスト_肺がん・パンコースト

1月6日は、亡父の三十一回忌でした。
「昨日」とは言わないけど、まだ1週間前くらいには感じられます。
もう30年以上経つなんて、にわかには信じられません。

父が大好きな挽きたてを淹れたコーヒーと日本茶、あまおうとフルーツトマトもお供えに買ってきました。今生きていたら一緒に味わってみたかったカマンベールチーズと、釣りのお供にお気に入りの長崎ちゃんぽん(カップラーメン)。亡くなる前しばらくは水しか飲めなかったので、おいしい水とビールも備えます……で、てんこ盛り!

母は元気です。
前日のヘルパーさん拒否の騒ぎを、忘れているのか、
忘れたふりをしているのか。
なにもなかったように、日課のAlexa呼びかけが通じました。
命日のことを伝えると
「ふーん。お父さんの好物はなあに?」と私に尋ねます。
「母さんの作るだんご汁とエビフライですよ」と答えたら
次回帰省時に、父が好きだっただんご汁とエビフライを
私と一緒に作るんだそうです。
「娘と作ったらお父さん喜ぶよ!」と母。
30年を経て、父が亡くなったことで母が泣くことは、もうありません。
過ぎていく時間はやさしいな。

母は父を、少しずつ忘れます。それでいいと思います。
大丈夫だ、私がまだちゃんと、しつこく覚えているからw。

【昨年の父の命日。昨年は奇跡が起きて驚いたのでした】

 当時を振り返ってみます。明るい話ではありません。

父は背中に強い痛みがあって、整形外科にかかって、レントゲンやCT撮影をしても理由はわからなくて。
でも食事時に箸をよく落とすようになるにつれ、「やはりおかしい」。
MRIを撮影して、肺に腫瘍が判明したのが、1992年2月。
一度は「がんじゃない」と言われ、「治る」期待に胸ふくらませ、4月、遠くのまちの病院で開胸手術。
ところが開けて見たら末期の肺がん(パンコースト)で、なすすべもなくそのまま閉じられ、「次のさくらは見られないでしょう」と余命宣告されました。2カ月間入院。前年11月の父の誕生日、還暦祝いに贈った【夫婦で鳥取旅行】のチケットは、母が病院に見舞いに行く回数券に替わりました。
思えば母に毎晩電話するようになったのは、この父の入院で、ぼっちになる母を励ましたかったのがきっかけです。

 
父が退院する頃に、当時大阪在住・27歳の私は、職場から復帰未定の長期休暇をもらって帰省。親のサポートに専念させてもらうことができました。その夏、毎日のように父の釣りのお供をした記憶は、私の人生の宝ものです。私は幼い頃から父がこわくて苦手で、あまり話したこともありませんでした。実はこのとき初めて父と密なコミュニケーションをとることができました。

母は、父が不自由な体でも好きな車の運転を続けられるよう(=釣りに出かけられるよう。釣りキチだったので)、大枚はたいてオートマチック車を購入。父はことのほか喜びました。とても元気で、行動的で、これは奇跡で、父は治ると思っていました。その回復ぶりに安堵し、私は予定を変更して9月に職場復帰。……大失敗でした。
 
9月上旬、突然父は急激に悪くなり、まったく動けなくなりました。実家市の病院に入院。以降はベッドに寝たきり。首から上以外は動かせませんでした。寝返りもできない。骨と皮になっていく父。
病院のご厚意で、ホスピス対応をしていただけることになりました。私は復職した手前、再度休暇をとることは気が引けて、それから、父が亡くなる翌1月まで、毎週末、1泊2日か日帰りで、大阪~九州を帰省しました。帰ってもなにもできないのですが、母に寄り添うことはできるので。


その年1992年は、死と隣り合わせの大晦日。せつなかった。父は痛み止めのモルヒネで朦朧としていました。
病室のTVから、紅白歌合戦が小さな音で聞こえていたような気がします。たぶん、生涯忘れられない年の瀬を過ごしていると感じました。正月4日に帰阪し、1993年1月6日のお昼に訃報。母に看取られながら父が逝きました。62歳。母は60歳でした。 


病床の父へ、毎日送り続けていた絵はがき。亡くなるまでずっと書き続けたけど、たぶん途中から、父はもう読めなかったはずです。父亡き後に、この絵はがきの束と父の日記を、私がもらい受けました。33回忌には開けて読もうと思っています(たぶん相当恥ずかしい💦

 

あのとき、自分が父になにもできなかったことを、ずっと悔いていました。
父と最後に交わした言葉が思い出せないのです。

でも昨年の秋、ふと思いついて、もしかして今の私は出来るんじゃないかと思って、
病室で眠るあの日の父にエネルギーを送ってみたら、
うまくできたように思えました。

自分の気のせいかもしれませんが、多分できてる。
ずいぶん遅くなっちゃったけど、ちょっとマシなことができたかも。
そう思うと涙があふれて止まらなくなりました。
父さん、おれ、ようやく、やったよ!
長かった。時間がかかりすぎてしまった。どんくさいかもしらん。
もっともっともっともっと早くできたのかもしれない。
まあいい。いつだって最善が起きているのですから。
 
というわけで父さん。
今は母さんのことで日夜バタバタしていますけど
私はこれでいいですかね。
今夜あたり夢でご意見賜りたく、お待ちしています。