認知症母の遠距離介護記録

91歳独居の母は要介護1。認知症で高齢者のADHD、片耳ろうからの両難聴。眼底出血による視野狭窄と視力低下。そして腰椎圧迫骨折!! 東京~九州で、遠距離介護しています。執筆者は1965生の娘。いろいろあるけど、まあいい!

母から娘への体の教育_さかのぼって育てられ方のリフレーミング 

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子どもの頃、母に、自分の体について、
ああしろ、こうしろ、体をいたわれ…と言われた覚えがあまりありません。
きっと母自身も誰かに教えてもらったことがなく、
体のケアについてなど、あまり知らなかったのだと思います。

社会人になってから職場の女性の先輩に
「フクちゃん、こんなに体を冷やしてはダメ。
女性は体を冷やしてはいけないのよ。とくに下半身はあたたかくしないと」
と初めて教えてもらいました。26歳くらいだったかな。
当時、真冬で、素足に短いスカートはいていたと思います。
冬場の寒さはただ我慢するのみと思っていたので、
教えてもらってとても驚いたことを覚えています。
「『女の子は』!? そうなの!?

それまで「冷え」という概念がありませんでした。

体の冷えに注意するようになると、不定愁訴がずいぶん改善しました。
二十代は更年期障害並みの不定愁訴でつらかった二十代。
十代から続いていたひどい肩こりも、次第に軽減していきました。
体調がマックスに悪かったのは二十代。今よりずっとひどかったです。
冷えが溜まっていたのかしら。体にとっては我慢の限界だったのかもしれません。
親に教わらなかった分はスロースターターでも、
みなさんにご指導ご鞭撻いただき、大きくなって、
今じゃ立派な健康オタクに育ちました(・∀・)。


女性としての体のケアについても、母に教わったことはありません。
第二次性徴についても同様です。
そういう世代なのかしら。わかりませんけど。

初潮は、少女マンガなどでそのドラマ性を学び、ちょっと憧れましたが、
「うちは大丈夫なのか。果たしてそんな準備を母さんがしているわけがない」
と思ったので、生理ナプキンなどは自分で買って用意しておきました。
我が家には母の生理用ナプキンみたいなものもありませんでした。
小6の時、遠足のおやつを買いに行ったときは、
持たされたお金で、お菓子ではなく、
母の生理用ナプキンを買ったことを覚えています。
みんながおやつを買うときに、
スーパーの買い物カゴに整理ナプキンが入っているのがちょっと恥ずかったっけ。
1977年くらいのことです。
「きっと母さんは節約しているんだ」と、気の毒だったのです。

日本に生理ナプキンが流通し始めたのは1961年らしく、
母がそれに乗り遅れていたとしても納得です。
しかも母は祖母(私の曽祖母)に育てられているので、
曽祖母式の経血ケアをある程度受け継いでいた可能性もあります。
明治以前の多くの日本人女性がしていたという、トイレで経血を出す方法です。
本当のところはどうだったんでしょう。今度母に聞いてみようと思います。


私は幼い頃の記憶がわりと残っているタイプで、
幼い私に対する、父と母のタッチの違いをよく覚えています。
丁寧に私に触れる父と、雑な母。
どっちが良い、悪いではなく、違いが鮮烈でした。

象徴的だったのは、3歳くらいのころ、親におしっこをさせてもらったあと。
母は、パンツもタイツも毛糸のパンツも、一気にまとめてガッと引き上げ、
上に着ている下着やシャツやセータをまとめてガッと下げ、
「一丁あがりっ!」
毎日何度もやることだから当然といえば当然です。
それで娘は超元気。何も問題ありません。
片や父は、パンツを上げる、下着をきれいに伸ばして下げる、上からタイツをまっすぐはかせる、その上からシャツを伸ばして下げる、その上から毛糸のパンツをはかせる…
ものすごく丁寧でした。熱を逃さないように細心の注意を払いながら。
現金書留の封筒を封する感じ。1枚ずつ互い違いに…。
良い、悪い、好き、キライではなく、ただ違うのです。
父の取り扱いからは、大切にしてもらっている感じを受け取りました。
母からは「ここを掻いて」というところを、的確に掻いてもらうような愛情をもらいました。
今にして思えば、母はADHDでたいへんなことも多かろうに、
「育ててくれてありがとう!」ですよ。

 

子どもができる仕組みを知ったのは、小学校3年生の放課後、
友達の男の子にはやされるように教わったのがきっかけでした。
「子どもがどうやって生まれるか知ってるか? 男の●●○●○を女の×××に入れるんだぞ! フクもそうやって生まれてきたんだぞ!!」
「えー、私はそんなんじゃないもん!!!」
「そうなんだって。おばちゃんに聞いてみろよ」

衝撃を受けた私は、半べそで家に帰り、母に尋ねました。
「おかあさん、私は、おとうさんの●●○●○をおかあさんの×××に入れてできたの?」 
「…ちがいますっ」。

翌朝友達に「やっぱり私は違ったよ!」と誇らしく伝えたことでした。
「そうか違ったんだ。なあんだ」
で、その話は収束したのでした。

 

1975年。いい時代でした。

母は祖母から育てられた上、父も親子関係に問題があり、両親は理想の子育てをしらないふたり。しかも転勤族で核家族でした。だれにも聞けない子育てはさぞ大変だったと思います。子どもの頃の私はうちにあった『家庭の医学』と、『女の子の躾け方』(←私用)、『スパルタ教育』(←兄用)の育児書が好きで、結構読み込みました。とくに『女の子の躾け方』は面白く、書いてあることを、自ら実践していく子どもでした。「ほー、こういうのが女の子として、いいんだ」みたいな。昭和40年代、核家族用の育児書でしょう。
ジェンダーレスとはほど遠い世界ですね。2020年、良い時代になりました。

ないかなーと思って探したら、ありましたわ!! びっくり。私の小学2年生以降の愛読書。小学生時代は繰り返し読みました。今の時代には全く合わないと思いますが、懐かしいので載せておきます。著者はもと東宮侍従

 そして、こっちもあったー!! 私これ読んでて、男児じゃなくてよかったわ」と思いました。こんな育てられ方、無理。耐えられない…。もと東京都知事石原慎太郎さんを知ったのは、この本ででした。