認知症母の遠距離介護記録

91歳独居の母は要介護1。認知症で高齢者のADHD、片耳ろうからの両難聴。眼底出血による視野狭窄と視力低下。そして腰椎圧迫骨折!! 東京~九州で、遠距離介護しています。執筆者は1965生の娘。いろいろあるけど、まあいい!

はばからず、慟哭せよ

週末にお参りさせていただいた築地本願寺

父を肺がんで喪ったとき、私は28歳で、
恥ずかしながら父の死にうまく対処できませんでした。

病気が発覚してから亡くなるまで1年ほど。
途中、「治るかも」の、光明を見たことが二度。
父は本来、自分の死期は知りたいと考える人だったのに、
時代的に、医師に強く勧められ、本人に病状を伏せていました。
そのため「これでよかったのか」という後悔は、
長く、長く、ながーく尾を引きました。
最後の最後まで、父を励ましてしまったことが
自分にとってもいちばんよくなかったと思います。

 

父はなぜがんになったのかとか、父のストレスはなんだったのかとか、
なぜ人は生きて死ぬのかとか、生きる意味とか、死ぬ意味とか、
この終わり方でいいのかとか、とか、とか、とか。
幼かったこともあり、もう悔しくてたまりませんでした。
ぜんぜん幼かった。
父と話しをしたことが少なすぎて、
本当はもっともっと父と話しがしたかったとも思いました。
病が発覚するまでは、コワいと感じてしまう父は苦手で、
避けていたために、ほぼ話したこともなく、
父という人をほぼ知らなかったのです。

 

父を思い、私が夜中にひとりで泣くことはあったものの、
亡くなった後は、喪失した悲しみではほぼ泣きませんでした。
葬儀では、母も兄も慟哭していたので、
私がしっかりする役割だったのです。


葬儀後に、父が最期までお世話になった病院に挨拶に行き、
父に届かなかった最後の手紙をナースステーションで受け取ったときに
少し泣きました。
その後も悲しみの対処が自分でうまくできず、
とりあえず休みなく仕事を続けて焦点を合わせないように努め、
いつかできるように自分に力がついたら対処しようと思いました。
「ああ、飲み込めた」と思えたのはそれから20年後だったと思います。
自分でこじらせすぎましたw。


その分、学びはありましたが、
ちょっと回復に時間がかかりすぎました。
言葉をかけてあげることができるなら、
はばからず、慟哭せよ。
と、あの頃の自分に言ってあげたいです。
ちゃんと泣く、涙を流す、出るものを止めない、
ということはとても大事。
それで癒えていくものもあると感じます。
といっても、あの頃の私は悲しみ続けているわけではなく
十分、十全に、癒やされているのですっかり大丈夫です。
かけがえのない学びでした。

そして今。死別は死別。それ以上でも以下でもない…という
淡々とした自分がおります。
あれから30年。年をとるってそういうことなのかも。

築地本願寺の合同墓、30万円。お高いけど、やっぱりいいなぁ。

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