2011年に義父が他界したあと、
義母は九州で、義きょうだいとふたりで暮らしていました。
その、同居の義きょうだいに、おめでたい話が浮上したので
「この機会におかあさん、東京で一緒に暮らしましょうよ!」と持ちかけたら
大喜びしてくれた義母。
離れていましたが、ふだんから電話ではしょっちゅう話して、たくさん愚痴も聞いてきたし。義実家ピンチのときには私も乗り込んで助っ人に入ったこともあるし、たぶん「(息子よりも)頼りにできる嫁」と思われていたことでしょう。
実母との同居は考えられませんでしたが
義母との同居はたやすくイメージできました。
二世帯住宅向けの、キッチンとトイレが2つずつある借家を見つけて、
先に私たち夫婦が入居して、義母の到着を待つことに。
義母と義きょうだいの引っ越し屋さんを手配し、
引っ越し日も決定。実施まであと1カ月を切っていました。
電話するたびに「夢のようだ、夢のようだ」と言っていた義母。
そこで、おめでたい話がご破算に。
「お義母さんだけ、上京されたらいいじゃないですか。
おうちはもうあるんですよ」と熱烈に誘いましたが、
「やっぱり、私ひとりだけしあわせになることはできんけん」。
義母は力なく笑いました。
義母との同居も、義母の上京も、露と消えてしまいました。
義母、夢破れてつらかったかな。それとも本当の本当は、やっぱり九州を離れたくなくて、全てがご破算になってどこかホッとしていたのかな…それはわかりません。
それから1年も経たない間に、
「義母の様子がおかしい」と同居の義きょうだいから相談の連絡があり、
「すぐ救急車を呼んで! 今すぐに!」と伝えて、救急搬送、入院。
ギランバレーなのかパーキンソン病なのかを発症し(結局どちらかわからぬままでした)、
急激に意思の疎通も体の自由もきかなくなり、他界。
2015年のことです。義母74歳。
申し訳なかったなと思うのは
義母が70代前半で「きつかー。もう歳やもんね」と言っていたときに
私は元気バリバリな実母を思い浮かべ(義母より8つ年長)
「まだまだ! 70前半なんて若い、若い」とハッパをかけてしまったこと。
加齢のダメージは人によって千差万別で
比べられるものではないことを、当時の私はわからなかったのです。
お義母さん、ごめんなさい…。
今なら全く違う触れ方ができるのになぁ。
初盆のときの万灯籠流し。初盆の家は「精霊船」を作って奉納します。
義母が他界して、初盆のあと、
「今までほっぽらかしていたので、これからは
残る実母に手厚くさせていただこうと思います」と夫に宣言。
笑顔で背中を押してくれました。
さっそく2015年9月、久し振りに実家に帰省したら、
すでに様子がおかしい!?
現在につながる、実母の介護帰省がスタートしました。
2015年9月の、荒廃したダイニングとキッチンと。
母はもともと片付けられない人ですが、崩壊が始まっていました。気づけてヨカッタ。待たせたね!