実家を出て10年ほど過ぎた二十代半ば、
戯れに、「もしも私が実家に住んだらどうですか?」と
母に聞いたことがあります。
「いくら娘でも一緒に住むのはイヤだな。スープの冷めない距離がいいわ」
「デスヨネー」と話したことでした。
「…という話をずいぶん昔にしましたね。覚えていますか?」
と、金曜日に日課アレクサ呼びかけの際に聞いてみました。
「やっぱり、誰にも遠慮せず、
好きなときに好きなことができるのは何物にも代えがたいのよ。
自分の気持ちに従って自由に行きたい場所に行くのがいい。
だからやっぱりひとりは最高なのよ」
デスヨネー。
もしも私が母の立場なら同じことを考えるだろうと思いました。
視線は左上。過去を確認しながら丁寧に答えようとする母。
と同時に、こんなふうに考えられる日の母は、とても元気。
まだまだ人生楽しめる余裕がありそうです。
好機でもあるのでどんどん、明るく楽しい記憶を上塗りしていきます。
「母さんが一人でもいつも楽しそうなのはどうしてでしょうねえ?」
※実際にはそんなことはありません。母は感情の波は激しい。でもこう言われるとノッてきます。
「えーっ、楽しいことばかり考えているからじゃないの?
今日もこのあとひとりでダンスを踊るわよ」
だだだだダンス???…ときどきついていけなくて笑うしかないわたくし。
まあいい。
「笑うのがいちばんですよ。母さんは明るいからいいですね」
言葉は悪いですが、どんどんおだてます。いいんです。
母にはどんどんいい気になっていてほしい。
母がごきげんで明るく過ごせるなら
生活の中でできなくなったことを私が少しフォローするだけで
母の快適が続くかもしれません。私が描く未来でもあります。
執着せず、ただ、臨機応変に対応しつづけていくだけです。
【母娘こんがらがっていた時代もありました】
今は昔。約40年前、私が高1の頃、母は過干渉でした。
19時過ぎになるとしょっちゅう「娘が帰らない」と、学校に電話をかけてくる。
私には課外活動があるので困りました。
一緒に活動している友人の親たちは学校に電話かけてはこないし、うちだけ。
恥ずかしかったです。うざかった。
でもそれがきっかけで、当時の親の転勤を機に、住む場所は親から独立できたので(経済的には全然!)、振り返るとよかったと思います。
高2になると、私はそれまで住んでいた京都の日本海側のまちで下宿。当時の帰省先は四国でした。
そこからしばらく母は軽く壊れていて、高校時代は帰省すると
「お母さんの老後の面倒は誰がみてくれるの」とか
「フクがどこに行ってもお母さんは全部ついていってやる」とか
すがられて、泣かれる日々でした。重かった。
それも、私が高校を卒業する時分には、母自身の社会環境が確立し、
娘へのヘビーな執着はなくなりました。
あのときはこんがらがっていたけれど
月日が流れ、母娘で大笑いできるようになってよかったです。
時間が解決してくれました。あと運もよかったのかもしれません。