認知症母の遠距離介護記録

91歳独居の母は要介護1。認知症で高齢者のADHD、片耳ろうからの両難聴。眼底出血による視野狭窄と視力低下。そして腰椎圧迫骨折!! 東京~九州で、遠距離介護しています。執筆者は1965生の娘。いろいろあるけど、まあいい!

母への怒りをリフレーミング

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怒りの感情が苦手です。
日常生活の中では、怒りに到達する沸点は結構高いほうだと思っていました。


しかし、体の反応から、強い怒りがあることを第三者に指摘され、
自分の中の小さな子が顔を真っ赤にして怒っているのを感じ取ることができました。

昨日の記事、こちら。

言われてみれば、あれもこれも、思い当たるフシはありますが、
なかでもとびきり大きな怒りが、母に対するものでした。

早い話が愛情の裏返し。
イヤな言い方だし、情けない限りですが、過去の話だから書いちゃうと
「私がどんなに頑張っても、母さんには認めてもらえない」
「母さんのせいでわたしはこんなになってしまった」
くらいに思っていたのです。お恥ずかしい限り。


記憶を掘り起こしてみると。
私が幼い頃から、母は教育ママゴンでした。
人よりも長い時間勉強することや、よい結果を出すことを迫られて、
「人が休むときにこそ働け。人が休むときに同じように休むな。
それが人より一歩先に進むすべて」と、子どもの頃から言われ続けて育ちました。
私が生真面目で融通の利かないHSPなのも裏目に出ました。


成長して、社会人になっても、母の対応は変わりません。
母は、副交感神経ナッシング。ガツガツ前向きにたたみかけられます。
電話はほとんど日曜日でしたが、
当たり前のように「今日も仕事ね」と言われます。
切る時には必ず「頑張ってね!」と発破かけられるのがつらくてつらくて。
私は当時、ほぼ休みなしの生活に疲労困憊し、
本当は月1くらいでいいから、人並みに休んでみたかった。満足に眠りたかった。
どうして母にまでむち打たれるのだろうと感じていました(ああ恥ずかしい)。
『オッベルと象みたい』の象みたいに
「もうだめです、サンタマリア」と言ってパタリと倒れたかった。
母に対して、「ちゃんと私を見て」という積年の怒りだったのです。


それが、第三者に、私の中に強い怒りの感情があることを指摘され、
目が覚めました。
これをきっかけに、内側からではなく(自分の感情に浸るのではなく)、
外側から母娘の状況を観察し、捉え直すことができたと思います。
母娘関係のリフレーミングです。

たとえば、生い立ちが複雑で親の愛情を知らずに育った母が
愛着障害を起こすのは致し方ない。
同時に、娘(私)があるべき愛着を望むのもしようがない。
しかし、愛着障害を起こしている母に理想的な愛着を望むのは酷というものだ。


その、自分の思いこみのフレームをはずし、外側から捉え直す積み重ねの成果か、
ほぼ時を同じくして、偶然母の多動傾向(ADHD)に気がつくことができ、
それとともに怒りが氷解していきました。

フレーミング
善し悪しなどの判断をせず、ジャッジせず、ただ観察します。

 ◎母は、特性として、他人への興味がほぼなく、話題が持続しない。
 ◎母は、会話は極めてうわべのモノである。悪意はない。
 ◎母は、「頑張りなさい」が口癖になっており、
  「おはよう」「いただきます」「こんにちは」並みの、挨拶に過ぎない。
  それ以上の他意はないと推測される。

しかも、とっくの昔に、母は曜日の感覚なんてわからなくなっていたのです。
わからないからこその「今日も仕事ね」だったのでした。
会話の内容に囚われ、深刻に捉えていたのは私だけで、
早い話が、母への私の怒りは完全に空回り…。

怒りに気付き、リフレーミングできたことはたいへんラッキーでした。

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これは美しく回る糸車…。旅先の沖縄で、おばあの仕事を撮らせていただいたものです。

5年前も今も、母の言動はほぼ変わりません。
でも私の対応はずいぶん変わったと思います。
人は変わらない。でも自分は変えられます。
それだけで、月とすっぽん、天国と地獄なほどにラクになりました。
母の言葉を、余裕で受け止められるようになりました。
私の思いこみ、バイバイ(^.^)/~~~

あの「怒り」の発見がなければ、もしかして今頃まだ、
私の中の小さい子は母に怒り続けていたのかもしれません。
くわばらくわばらだな…。