またまたちいさい話です。
介護帰省していたある日、母が昼ご飯を作り
私の好物の卵焼きを焼いてくれました。
しかし、できあがったのは、私の大嫌いなネギ入り卵焼きでした。
「わたしは、プレーンな、純粋な卵焼きが好きなのに、どうして!?」
「いつも言っているじゃない。どうして大事なことを忘れてしまうのだ」
「母さんはどうせ私のことなんて考えてやしないんだ」
ネギ入り卵焼きを通して、自分がないがしろにされている感じがしたのです。
それでプンスカ怒りながらネギ入り卵焼きを食べました。
とてもプリプリしていました。
とうに50歳も超えているのに。
小さすぎて残念な話です。
ほんの2年くらい前のことだったと思います。
あれから、少しでも、成長させてもらう時間があったことに感謝します。
あのあとすぐに母が亡くならなくてよかった。
まだ母さんが生きていてくれて本当によかった。
子が大事だろうとなかろうと、好物を作ってやりたかろうと意地悪したかろうと、
そんなことはもうとっくに覚えていられなくなっているのを
気取られないように精一杯繕っているのだということに
そのあとでようやく気がつくことができました。
母の様子がおかしいことに気がついてはいたものの
そこまで、忘れたり、できなくなっていたりすることにまだ気がつきませんでした。
たっぷり年を重ねたら、「秋の日はつるべ落とし」みたいに
できないことがするするするする増えていくことだってあるんだから。
いつまでも、
自分だけ昔の頭で、
無い物ねだりしてんじゃないわよ。
人の好みまで覚えていられるわけないでしょう!?
卵焼きが焼けるだけでも十二分、感謝しなさいよ!
という境地まで達するにはまだ少し時間を要したのです。
過去に生きるな、未来を恐れるな、
ただ、目の前の今の母を大事にするんだ。
甘えたい気持ちがまだたっぷり残っている
自分の中の“小さい子”をなだめながら話をします。
もしかすると、フクの甘えたいお母さんは残念ながらもういないのかもしれない。
けれど、フクの大切なお母さんがまだいてくれるのは、とても幸せなことだよね。
一度母から感じてみたかった
「お前は、生きているだけで、そこにいるだけで、素晴らしい価値があるものだ」
ということを、私が母にたっぷり感じさせてあげること。
「母さんがそこに生きているだけ、いるだけで、
素晴らしい価値があるの。ありがとね」
自分がしてほしかったことを相手にする。
相手を最大限に尊重する。丁寧に扱う。
うまく伝えられるだろうか。その行動をできるだろうか。
でも、できたらきっと、私は“小さい子”とともにとてもうれしくて
母は心楽しい人でいられるのではないかしら。
偽善でもタテマエでもよい。私はなりたいものになる。
まだまだ思い通りにならなくて
次の小さいことをやらかしては、自分に辟易しています。
でもなぁ。それも含めて
なんかありがたい話やで、と思っています。
良くも悪くも、
わたくしごとにきにできることは限られているのです。