夫の部屋のカレンダーはお寺さんでいただいたもの。シュールでええわ~。
1994年のこと。火葬してお骨になった父が帰宅しました。
四十九日までの間はお骨がうちにあります。
私は誘惑に耐えかねて
ある夜、誰も見ていないスキにこっそり骨壺を開け、
中から父のお骨をちょっぴり失敬しました。
大阪(当時)自宅に持ち帰り、いつも一緒にいてもらおうと考えたのです。
今も東京自宅には、わずかですが、
小さな壺の中に父のお骨を大切に保管し、日々供養しています。
いわゆる手元供養。最近ずいぶん市民権を得てきました。
あとでわかったことですが、
同じことをした不届き者が家族におりました。
母です。
納骨したあとで「実はねぇ…」と自慢げにカミングアウトされました。
私と同様、骨壺から父のお骨をひとかけくすねたそうで
今も実家居間の壺の中に入れています。
2階に仏壇があるのに、1階には今もいつも父がくつろいでおり
お供え物が1階にもあるというヘンテコな状態です。
「いつもお父さんと一緒」感。
もっともすっかり景色になっていますが。
若かりし日の父と母の写真とともに、実家居間に飾っています。壺はでかいですが、中には大切に紙で包んだひとかけらが入っています。
東京自宅に保管しているお骨について
最近、気になっていることがあります。
東京で、日々のおつとめ(供養)をするのは私です。
父のお骨があることは夫に話していますが、彼は詳細を知りません。
あれ? これ、私が急死すると、お父さんのお骨、まずくない?
東京の父(の骨)は、私の棺に入れて仕舞うのがマストですが
死出の旅に、TODOリストがいろいろあるのはどうなんでしょう。
せっかくの今際の際はゆっくりじっくり味わいたいし。
親の介護をしているせいか、
常々、自分の死はいつも身近にあり、
身ぎれいにしておきたい気持ちが半端ないのです。
自室に父の骨を残したまま死ぬなんて、あんまりばい!
…ということに30年経ってようやく気づきました。
ゆえに、次回帰省時は、東京の父のお骨を実家に持ち帰り
母の持っている壺の中に入れて合体させようと思います。
順番通り、私よりも先に母が亡くなれば
母と一緒に、棺に父のお骨を全部入れてあげられます。
足元にはお供に、愛猫のお骨も入れてあげよう。
もしも私が先でも、実家にまとめて父のお骨を置いておけば、
少なくとも東京宅に父を残すリスクはなくなります。
夫からすると、他人の骨は、対処に困るものでしょうし。
なんだか、父にも夫にも悪くて。
義父が亡くなったとき、夫に「お骨を持って帰るなら、ちゃんとご供養するよ?」と
申し出たものの、夫はしばらく考えたのち、「やっぱりやめておく」でした。
そのときはわかりませんでしたが、先々を考えると、
自分たちの人生を仕舞うのに、
自宅にお骨がないほうがスマートなのだと気がつきました。
どれだけ時が流れようと、お骨は特別なもので、決して「もの」にはなりません。
「もの」なのに。わたしの執着かもしれません。
というわけで、今後、母が先に亡くなろうと、夫が先に逝っちゃおうと、
手元供養はしないつもりです。
なにより、お骨のあるなしにかかわらず、
会いたい人にはちゃんと会えることもわかり、少し安心しています。
…なんていうことは、父の没後30年近く経つことで
ようやく生まれた私の余裕なのかもしれません。
時に心の拠り所として、手元のお骨に支えてもらったのだと思います。
父さん、ありがと。
先日久し振りに父が夢枕に立ったので
思わず、「母さんがぁぁぁ!!!」と泣きついたら
ちょっと楽しそうに笑っていました、父。お盆ですね。